丹生城
時々、郷土の史跡なんかを検索すると結構ヒットします。
どの世界にも通人はいるもんだ。
そんで、20年位?前かな。丹生城保存会的なのをどなたかが立ち上げて
藪刈して案内板なんかを設置してくれた。
しかし、私的には?????な所が幾つかある。
発掘調査がされた訳でもなく、
地元に約400年伝わる伝承の方が遥かに信憑性がありそうなのです。
おそらくは、山崎先生の調査資料に基付いているのでしょうが、先生の見取り図も位置的に違う所があったりします。
例えば小屋敷。ここは地名的には森下(この地名も失われつつある、年寄りが居なくなれば、消えるんだろうな)で小屋敷はもっと南西、近年二の丸と言われ出した所の麓にあたります。
もっとも、先生は此処を二の丸とは言ってませんので、十分な確証が得られなかったという事でしょう。
さすがです。
そんな訳で自分なりに、口伝を検証して見よう、そして失われゆく遺跡は
形が変われば、また、間違った形が伝承されてしまう、そんな危機感を感じての事です。
そもそも、丹生城とは、応永32(1452年)新田氏が賜ったというのが史実のようですが、地元の年寄りたちは、丹生四朗金乗(にゅうしろうかねのり)の開城というのが通説です。
そこに、新田氏の影は微塵もありません。
もうお分かりと思いますが、丹生山金乗寺、ここにかねのりの名があります。
菩提寺として、この寺を開基したようです。
そして、この人は、平家物語(11巻、弓流しの項)にも出てくるのですが、果たして本人かどうかは良く分かりません。というのは、源平合戦で功を立てこの地に入ったらしい説があるのに、当の合戦では上野の住人と出てくるので、これ以前の合戦で功を上げたという事でしょうか?謎ですね。
(11巻、弓流しの項)
さてさて、土曜日は、漸く強い霜が降りたので、しもんたねぎを掘りました。
ネギを干す間に、城に上りました。
今年も良いのが出来ました。
いや、何のブログか不明になってますけど(苦笑)
お馴染みの案内板ですが、構久保は古地図で鎌久保。御屋敷は小屋敷です。本丸を御屋敷、家臣団の住居を小屋敷と言ったのかも知れません。
あるいは、国峰城のように。平時は小屋敷に住んでいた。いずれにしても
本丸に対しての呼び名でしょうか?まあ、城と言っても、有事立てこもるための物、立派な居館が有った訳ではないでしょう、瓦欠け一つ見付けた事ありません、砦でしょうね。
しかし、たかだか400mの尾根に物見櫓が多すぎません?どこの尾根に上っても周りは丸見えですけど。
まあ、実際歩いてみてください。研究家の皆さんなら信じる人もいないでしょうが、素人は、すごい城だったんだなあなんて思っちゃいますね。
実際、規模としては凄い城と思いますが。
それで、今回は、だれの調査だったか、西に三重の竪堀あり、つうのを見た覚えがあり、ピンと来ていたので、そこを見てみました。
金乗寺の北、水道施設の所に、堀切があります。
今は落ち葉に埋もれてしまいましたが、深い所は1m以上あり、自然の道型ではないでしょう。
また続きの尾根は、畑となってますが。元は櫓だったと思えませんか?
垂直に近い土手、平らな畑、近年の開墾ならわざわざこんなご丁寧なことはしませんよ。
今は道路で分断されていますが、左側がさっきの薬研掘に続きます。
そして、
金乗寺側も急、工事で更に急になってしまいましたが、有事はこれも防御の拠点となったことでしょう。最も、本堂は元は10間の菅屋。火矢でも射かけられれば
ひとたまりもありませんが。
16.02/22追記、金乗寺は、当時ここにはないのですが、地形からすれば、城域の範囲でしょうね。外から2番目の竪掘りの先は、2段の郭です。今は墓地
今回の堀切の向かって左の墓地がそれです。
ガードレールの途切れたところで、堀は分断されていますが、上にも続きます。この左下、郭の跡らしきがあります。↓
上方向はやや平坦な道。
研究家の皆さんはどう見るか?
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我々が考える以上にご先祖様は開けていたんですね。
投稿: 亜果樹 | 2017年2月 2日 (木) 11時16分
亜果樹さん
結構遠くまで遠征してますよね。
山名そうぜんなど、新田氏の小領主だったのが、室町初期の
出世頭。今も山名の地名は残っています。
妻の叔母は、島津の人と結婚して、結婚の報告に墓参りに行ったとき
島津廟から出てきたというので、見ていて人が土下座したのに驚いて
そんな時代じゃないのでやめて下さいといったそうです。
投稿: ライター | 2017年2月 2日 (木) 23時13分