地元では、じげえくぼというそうです。
伝説では、四朗金乗が隣村の高田なにがしに夜襲をかけられ
もはや逃げ切れぬと、
この地で郎党差し違え自害した。
と言う事です。
後に村人が死を悼み石碑を立てて供養した。亡骸を葬ったのが
金乗塚ではないかと思います。これは温故館の前辺りにあるようですが
その近くに、塚越という地名があり、金乗塚を超えた所。
という意味でしょうか?
しかし、なぜ菩提寺に墓所が無いのか不思議でしたが、この頃は
寺は、創建されたばかりで、和田山にあったようです。
今、その所在地は不明ですが。何となくこれかも?という所を
先日発見しました。それは別項で詳しく。
前にも書きましたが、この四朗金乗という領主、短い施政でしたが
余程良い領主だったようです。後の新田氏の領有期間の方が300年位?
なのに地元では、新田氏の領地であったことはほぼ知られていません。
時には、新田=金乗的に扱われたりします。
その場所は、例の案内板によると、高速の左。
それと思しき杉山の谷を歩いてみたが、見当たらず。
獣道とも、かつての山道とも思える所をうろついて見たがこれも×
何もないのかもと諦めかけて、高速の脇から、川の崖へ超えてみると
あった。丸い石塔。明らかに身分の高い人の物だ。偶然の発見ですが、
何か匂いに引き寄せられた様な。

高速で、移動したのか、台座はコンクリート。
文字はあるようだが800年前の物だし読めず。
何故か、台座から外れている気がしますけど。
小さい方が、従者のものか?台座には蓮の花文が刻まれています。
見学終えて、道路に出ると、地元の人が犬の散歩してたので、尋ねてみると
「何かあるかい?」と、もはや記憶から薄れているようだ。
これこれこういうものがあると説明したが。
金乗塚の存在も知らないようだ。
塚越地名は分かってあそこだと説明してくれたが。
この人は、源平合戦で、平氏に敗れ、大和よりこの地に逃れてきたという。
ならば、夜襲をかけたのは平氏による残党狩りではと思ったが、
ここまで逃げおおせて、隣村に攻められてまた逃げれば良いではないか
隣村にしてみれば、勝手に領地に入り込まれたという事なのか。
しかし、平家物語の弓流しに出ているところから、残党狩りで死んだのでは
無い様だ。

ここです。そういえば、この辺り、竹洞(たかっぽら)の水浴び場で
子供の頃、友達と遊んだな。鳴沢のすぐ近くで、自分らの水浴び場より
水はきれいだった。
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