三光坊墓
先々週の事なんですが、1園の作業終えて、一休みしてる所に、
近所の人がウオーキングで通りかかったので、丹生神社の
案内板だと前の河原の道祖神辺りなので
「あれかい?」
聞いてみた。
「違う、向かいの山の上だ、うちの墓の隣なんで、親父から
おめーが守れと言われたので、草刈りして手入れしてる。」
「墓碑銘もない自然石が立ってるんですぐわかる。」
という事で、行って見ると、1m位の自然石があり、南側は、
こんもりと塚のようになっている、北側は、圃場整理のせいか
面一。
そこの畑におばちゃんがいたので、聞いてみたら、まあ、女衆は
話好きで(女がしゃべらなきゃ赤ん坊が言葉覚えない。そう出来てるようだ)
此処には昔、お寺があった、と言っても、お堂の様な小さいもので、坊さんもいた。それが死んだ後、周りのオッシャン(坊さん)が交代で見てたけど、今は
永隣寺が見てる。だから、ここは墓地があるんだ。と言う事で、記録にも無い、伝承が聴けて良かったのですが、
この三光坊、ネットで調べると、室町~戦国期の有名な面打ち師、翁面が有名。越前の僧侶。三大面打ち師など、すごい人の様だが、それほどの人がなぜ、こんな辺境に、京都の公家にでも面を打てばよい暮らしも出来ただろう?
この地に来て、遺品の一つもないものか?まあ謎です。東北にも墓所の伝承があるようだし、同名の別人だろうか?
私が、こんな話をしても、どう言ういわれかの話もないので、地元でも三光坊というだけで、どんな人かは定かでは無いのか?知ってる人も居なくなったのか、たまたま自分の墓地の近くなんで、その人たちは伝承を受け継いでいる
そんな感じでしょうか。
しかし、聞いた人が、まさに隣の人、何か匂いを嗅ぎつける感じ
それに、地元の人には、伝承が受け継がれている。
名馬磨墨の石碑の場所も聞き出した。これも、通説とは違う場所であることは
聴いていたが、特定は出来ていなかった。
少しづつ謎が解けていくのは楽しい。ここらではっきりさせておかないと
後代には、ますます曖昧になってしまう。実際自分のきいた話と違うことも
多少ある。この日は、鳴沢不動の源流と自害久保を尋ねた。
北から↓
南西から↓塚に見えるが。
「郷土史」カテゴリの記事
- 連石山と宮崎公園(2019.05.08)
- 丹生乃民話と史話 2(2017.01.19)
- 丹生乃民話と史話 1(2017.01.19)
- 自害久保(2016.02.25)
- 鳴沢不動(2016.02.25)
コメント