大掃除もほぼ終え、年末恒例?山行へ
昨年は、大晦日に出かけた。流石にアホだなあと思い、
それはやめた。でも1日しか違わないじゃないか。
ややアホ。
そして、今回もプチ登山、いやハイキング?で故郷の?東大桁へ
小学校の校歌にある、蕨を摘んだ大桁の~です。
4.5.6年と、5月連休に友達と蕨やぜんまい採りながら登った
懐かしい山です。
当時山は焼かれ、毎日煙がもうもうと上がっていて
大桁焦げた(小桁)なんてみんな言ってました。
杉を植えたばかりなんで、道がなくても、山肌に這いつくばって
登れました。関東平野が一望できる絶景に、一同感動したものです。
この山、実はその昔、弘法大師が、金剛峰寺を開山する場所を求めて
諸国行脚した際に、扇形に開ける関東平野の最奥で、扇の要に位置する
山と云う事で大変気に入り、くまなく調べたが、九十九谷で百谷にどうしても
一つ足りないので諦めたという伝説があります。周囲に弘法の池は2カ所有り、鳴沢不動尊は、大師の開基であるらしいです。麓の山口には聖徳太子が刻んだ観音様が安置されているという、伝承もあります。
今日のルートは、
無数にある林道から、1の西大桁分岐まで車で行こうとしましたが、
作業道で、ゲートがあり、車は入れないので、やっすらぎの森、
旧市営キャンプ場から出発。長男が小学生の頃、山登り始めて、
最初に登ったのが、西でした。余り面白くなかったのですが。
今回は、子供の頃登ったルートは、道とも言えない状態だろうし
杉が大きくなって、立派な森になって、見通しが利かないので危ないと思い、
ネット上に時々出てくるコースから、入りました。
本来なら、丹生の山口から入りたい。名前の通り山の入り口ですから。
まず、剣ヶ峰(半鐘山)。安らぎから、舗装の立派な林道に出て、
正式な道はなさそうなので、適当に登りゃいいらしいので、
見れば、作業道がある。そこに入ったのが運の尽き。
倒木をいくつも超え、くぐり、無数の獣の足跡見てビビり。
おや、子供の声が・・・するぞ。物好きが居る。
この年の瀬に、しかも、超マイナーな山で。
やっと舗装の林道にたどり着くと、家族連れの4人組だった。
こちらは、西へ行った。自分は、反対へ。
1の分岐を右へ行くらしいが、道は途中で消えた。
適当に登るしかないが、またまた西上州。急な砂地、
足とられながら登ると、なだらかな稜線に出た。
どうやら、左の道に入ると、楽にこちらに来られそうだ。
その後はたいいした登りもなく、頂上へ。
しかし、熊五郎さんの落としものが・・・
天気晴朗なれど、展望すこぶる悪し(爆)。西と、鹿岳なんかが梢越しに
見えるだけ。頂上は風も強い。
見れば、東に下る道もない。適当に降りるしかない。無数の、
猪之八さんが掘り返した、地面や獣道。何だかハチャメチャ。
足元は良いが見通しが利かない杉の森、やや心細く、早く抜けたいと
思うと、少し汗汗状態。
思えば、簡単そうな山で、いつもしっぺ返しを食らう。大体人が入らないので、
道がない。昨年の富士浅間(月形山)もそんな山だった。
やっと舗装道が見えた時は、何とラッキョウ(ラッキー)にも
2の東の取り付きの、まん前だった。
ここは、左ですな。
振り返ればさっきの下りも、藪道があるようだった。どこまで続くか不明だが。
途中で、バイクの音が轟いていたが、トライアルの連中が入り込んでいるようだ。
真中輪達でほじって歩きにくいぞ。
ここは、作業道じゃ無いだろう?所々、大石が真中に
何かの目印の様に。
そして、そういう事か、信仰の道。
何やら、大正時代、63丁歩植林した旨の事が、宮に刻まれた名前が、
丹生村の氏姓の様だけど、向きは菅原方面、良く分らん。
元々は萱場か牧場だったこの山域。軍馬も、菅屋の需要も無くなって
植林したのだろう。
やっと山頂と思いきや、また作業道、雪もある。
近場の山で一番に雪が降り、風花が舞ってくる、
800m程の山でも、豊富な水と恵みをもたらして来た山だ。
さて、山の神は、こんな暗い所じゃなかったな。
この分岐、右にさらに斜めに細い道。これかな?
明るい東斜面に出れそうだ。やや下り再び一登り、また作業道。
途切れたり、突然現れたり、まるで迷路だなあ。
ピークと思われる所は、意外と小さく藪化し道もかすかな藪道。
おおよそ、神々の御座にふさわしく無く、更に北へ行く。
あった。
しかし、記憶と違う。もっと立派な基壇に三座の神様が鎮座していたはずだ。
お宮の基壇に銘文が、原村講中。
あ~、原の御嶽山だ。やはり、ここは、原、山口村の神様だった。
子供の頃の記憶通り、稜線に踏み跡があり、獣も通って居る様だ。
しばらく、辺りをウロウロしたが、更なるピークは無さそうだ。
と、すれば、やはり、あのピークが・・・戻って、藪道を少し登ると。
あった。実に、44年振りにやって来た。
まず、記憶にあった。樅かカヤの大木、太い割に丈が低い、
気象条件が過酷で高くなれない。辺りは禿山だったので
この木は印象に残っていた。本当に懐かしい。
しかし、松喰い虫にやられて、すでに、数年前に枯れた様だ。
そして、神様はと云うと、お宮じゃなくて、神像だった。
昔の記憶のなんと曖昧な事か。ただ、大きな基壇は記憶があった。
注連縄やオンベロがあるので、どちらかの村でお祭りしてるようだが。
山口の衆か?
それにしても、両脇の象は頭がない。左は、利剣と宝珠(本来は羂索)を持っているので
不動さんだろう、やはり水源の山に相応しい。
右は、錫杖を携えている、地蔵さんか?
大抵の石仏は、凍みで首が飛ぶが、頭は乗っかてるのだが、
明治の廃仏毀釈で頭を飛ばされたのだろう。神官だけまともな姿だ。
こんな地方の信仰でさえ、煽りを受けたんだなあ。
権力が道を誤ると、あらぬ方向へ行ってしまうんだなあ。怖い事だ。
タリバンだの文化大革命だの、批判できない状態が日本にもあったんだ。
何と罰当たりな・・水が枯れるぞ。
そして、周りの板碑は、不思議童子だけ読めたが、碑文に文久三年とあった。 1863年幕末の頃の様なので、それまでの神仏混合の様式だろう。
一番左の板碑に、杵屋弥三郎と奉納者の名が刻まれていた。
餅つきの杵を作る職人だろうか?
この石象には、碑文も無く、一体何時の造営で誰が建てたのかも
不明であった。
実は、以前、友人の親父さんに、この板碑の事を調べて見ろと言われて
気になっていた事もあり、いずれ行きたいと思っていたのだ。
実現して良かった。親父には報告できなかったが。
全部で8枚ありました。矜迦羅童子(こんがらどうじ)。不思議童子。
虚空護童子。不明。持堅婆童子。利車毘童子。獅子光童子。不明。
不動八童子かと思いきや、赤文字以外不動様の童子では無いが、
八童子的な気もする。当時の石工なりが混同してたとか、他の意味があるかもしれない。
帰りに、わずかに見えた、景色です。
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