丹生(たんしょう様)神社の境内に、こんな案内板がある。
東城の西に野栗神社とあるが、地元では御岳山と言われている。
子供の頃から、大きな石碑や石灯篭があるのは知っていたが、
近くに行ったことは無い。
隣の竹やぶで、筍を蹴り倒して遊んだくらいでした(爆笑)
今回、圃場整理されたこの地を、じっくり歩いてみました。
実は、馬頭観音は何処へ行ったのか気になり探したけど、
見つかりませんでした。
長男が生まれた時に、後産を埋めた所でした。この地では
ここに埋める風習がありました。
野栗社とは、浅間や熊野の様な分社の事か?良く分かりませんが
神社庁で調べてもこの地に、存在しない。
代りに、「白山神社、上丹生神社」の2社が、今は、存在が分からないが
160222追記。上丹生神社は、八幡宮。白山神社は、部落の人たちの信仰が厚いとの記事がwikiにあり。
登録されていました。シラヤマ神社は、かつて、そこにあったことは聞いたことがあります。名前までは聞きませんが。地元でも其れ位古いものだったか?
本題。
2/7追記。上り口の石灯篭。これが御岳里宮に見立てたか?
石灯篭超えると、行き成り不動尊。
でかい、1.5m位。でも何故、不動様?水は無いが。
その上に八大童子。
さらに上には、三十六童子。
清滝弁天。
追記。安政二年乙卯一八五五年。他の文字は読み取れず。
今回、新たにもう一つ石碑が見つかったが、完全に風化して
何も読めない。配列から推測すると、八海山、三笠両大神のどちらか
ということはないだろうし。民間信仰でなじみ深い、田ノ原大黒天辺りではないかと思うのです。
五大竜王。次々現れる石碑。一体これは・・・・。
更に、更に、
阿留摩耶天。以前下仁田富士に登った時、カラス天狗が居られたが
そこは、御岳信仰が一目でわかるところだった。
ここは一体???
追記。この神様だけは、御岳山の配列とは違うようですが、
本家は継子岳に祭られているようですが。
ここが頂上だった、なるほど立派。ここだけは明治時代の建立で書体も
石材も見事ですね。(明治三十二年九月1899年)
昭和の初めころは、石尊講(7/二十日ころ、疫病が他所から入らないように
村堺や川に梵天を立ててしめ縄で結界を張る。)
の時、お参りして、越中褌の男衆が
「懺悔 懺悔 大懺悔 大山石尊大権現」
とか言って、水かけっこしたと聞いたことがある。
山伏のさんげ~というのと同じか?
そしてすぐ後ろのかつての城の土塁跡に、摩利支天が。
これで、大黒様があれば完璧。しかし、ここはパワースポットですよ。
これは、一体何かと調べてみたら、木曽御岳の、大滝口を再現したものの様だ。なるほど、神仏の配置まで同じようだ。西の御岳方向を向いている。
正確には南西かな?
まあ、江戸時代、正確な方向は分からず、「大体あっちのほうだんべ~」
って感じかね。今でも緑の事を青というくらいだし。
東京とかにある、富士塚と同じような意味合いのものかな?
先日、二度までも私を拒んだ、秋葉山も見事な様だが、こちらも
立派、
大桁山の石仏も謎が解けた。↓
それから、唯一残る東城の遺構は、摩利支天と御岳の続きの
郭(障子掘?)跡だけです。ここは発掘調査無のようです。
摩利支天の土塁はかつて3mほどあり、今は1m。其の上に本郭が1m
頂上を3m削ったというから、ほぼ計算は合う。
本郭跡から、大桁、本城。
南東に宇田城。高田本城。右手には神成、宮崎城。
北に郷戸が谷津城。
周り中敵だらけだとしたら、何とも落ち着かない場所ですね。
まあ、東の守りが固い所を見ると、高田氏は敵の部類だったか?
かつて、四朗入道金乗は、高田に夜襲をかけられた話が有ったので
新田氏も警戒したであろう。
発掘調査の様子は余湖さんのHP
かつて、裏木戸があった、木戸坂。今は直線道だが、かつてはクランクで
深い切通しだった。
追記。石碑の配列はほぼこうなっております。
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