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郷土史

2019年5月 8日 (水)

連石山と宮崎公園

4/21つつじが見たくなったので城下町小幡の公園に行った

駐車場が変わって分からないので奥まで行ったら

いつか、広報か何かで紹介されていた、連石山の登り口に出た

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一周1㎞位なので、登る用意はしてないが登ることに。

ここは、富岡製糸場の基礎石を切り出したそうだ。

アレ?南牧村の椚石じゃなかったか?

苦を抜くという縁起物の椚石は多分、柱の基礎だと思う

ここの石はレンガの基礎じゃないか?よく見てないので

不明だが。

これが、石を切った後。

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低山ながら、見晴らしが良い。

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いきなり、大きな観音様。十一面観音です。

仏なのに、なぜかしめ縄、おんべろが・・

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33体あるそうですが、こちらは千手十一面観音。

あとは、如意輪観音が多かったです。

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そして、摩崖仏、これは昭和の後期の作だっけか?

割と新しいんだけど

小錦に似てないかい?

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つつじは、見損ねたので、宮崎公園へ。

まだ少し早くて、山つつじが咲いてるのみ

本霧島が咲くと見事なんだけど。

500本くらいの大株が岩山を覆う様は見事なり

あまり人もいないし、穴場中の穴場だあね。

ふもとから移築された、日本最古級の民家もあるし

旧茂木家住宅。

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2017年1月19日 (木)

丹生乃民話と史話 1

 昭和四九年。臼田八十八翁が古希を記念して自費で出版

地域に配布した、30ページほどの本がある。

現在、保存されている物は少ないのではないか?

また、地域の遺産として、学校の郷土史の勉強などに

役立てばと思い、データ化して置こうと思います。

(図書室にはあるのかな?)

なお、不許複製とはありませんが、著作権の問題も

あると思いますので、一応、臼田先生の著作物であることを

明記しておきます。

因みに、先生は、校長先生を退職後、公民館館長などを

しておられました。

 また、資料の、調査元は、岡部家の文書によるものだと思われます。

祖母に聞いた話が、最近になって、記録に残っていたことだと

判明したりという事がありました。

岡部家というのは、江戸期から、南牧村砥沢の砥石を一手に

商った豪商で、地域の発展には大きな貢献をされた家柄です。

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丹生乃民話と史話 2

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2016年2月25日 (木)

自害久保

 地元では、じげえくぼというそうです。

伝説では、四朗金乗が隣村の高田なにがしに夜襲をかけられ

もはや逃げ切れぬと、

この地で郎党差し違え自害した。

と言う事です。

後に村人が死を悼み石碑を立てて供養した。亡骸を葬ったのが

金乗塚ではないかと思います。これは温故館の前辺りにあるようですが

その近くに、塚越という地名があり、金乗塚を超えた所。

という意味でしょうか?

しかし、なぜ菩提寺に墓所が無いのか不思議でしたが、この頃は

寺は、創建されたばかりで、和田山にあったようです。

今、その所在地は不明ですが。何となくこれかも?という所を

先日発見しました。それは別項で詳しく。

 前にも書きましたが、この四朗金乗という領主、短い施政でしたが

余程良い領主だったようです。後の新田氏の領有期間の方が300年位?

なのに地元では、新田氏の領地であったことはほぼ知られていません。

時には、新田=金乗的に扱われたりします。

その場所は、例の案内板によると、高速の左。

それと思しき杉山の谷を歩いてみたが、見当たらず。

獣道とも、かつての山道とも思える所をうろついて見たがこれも×

何もないのかもと諦めかけて、高速の脇から、川の崖へ超えてみると

あった。丸い石塔。明らかに身分の高い人の物だ。偶然の発見ですが、

何か匂いに引き寄せられた様な。

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高速で、移動したのか、台座はコンクリート。

文字はあるようだが800年前の物だし読めず。

何故か、台座から外れている気がしますけど。

小さい方が、従者のものか?台座には蓮の花文が刻まれています。

見学終えて、道路に出ると、地元の人が犬の散歩してたので、尋ねてみると

「何かあるかい?」と、もはや記憶から薄れているようだ。

これこれこういうものがあると説明したが。

金乗塚の存在も知らないようだ。

塚越地名は分かってあそこだと説明してくれたが。

この人は、源平合戦で、平氏に敗れ、大和よりこの地に逃れてきたという。

ならば、夜襲をかけたのは平氏による残党狩りではと思ったが、

ここまで逃げおおせて、隣村に攻められてまた逃げれば良いではないか

隣村にしてみれば、勝手に領地に入り込まれたという事なのか。

しかし、平家物語の弓流しに出ているところから、残党狩りで死んだのでは

無い様だ。

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ここです。そういえば、この辺り、竹洞(たかっぽら)の水浴び場で

子供の頃、友達と遊んだな。鳴沢のすぐ近くで、自分らの水浴び場より

水はきれいだった。

鳴沢不動

 涼しさや

   滝の鼓に

     松の琴

           長相軒 士行

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境内に入ると、すぐ左手に この俳句碑があります。検索しても

ヒットしません。どんな人?

正面のお堂

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瓦葺きを40年くらい前に銅板葺きに替えた。一枚?円の寄付が来た記憶が、

でも緑錆が出てないね??

お滝。

一番右は新しいものです。他の二体は以前からあり、中央は珍しい

鉄製。金仏様です。

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此処にも清瀧弁天様が、今まで気づきませんでした。

興味がなきゃそんなもんよ。

こちらも水の神、お不動様とまるで夫婦のようです。

最強の水神に守られて、この水は大干ばつでも枯れることは無かった。

縁起が額装されていました。

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さて、ここの水源は、森の中に忽然と湧き出る泉と聞きましたが

未だ行ったことありません。

昭和30年後半、水道を引く為、住民総出で泉を掘り、1日分の水を溜める

大きな池を作ったということです。

大雨降ると濁って、さらし粉入れるので、今度は白く泡立って。いたずらで

濁されたこともあるようですけど。

滝の奥は幅10m程の緩やかな河原、ここを登っていくと、

思いもよらず、大きな石碑(写真じゃ文字が読めない、碑面はもう忘れた)

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更には

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修験道の開祖。役の行者ですね~。蔵王権現?

驚き

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当日気付きませんでしたが、蔓に覆われてもう一基お宮あるかなあ?

御嶽三神かなあ?水流の中心に石垣積んでこれらの神々が鎮座しておられます。

更に上る。第4水源と

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しかし、まだ源流ではない。

62060109更に登った所が、源流。先日の雪で杉が倒れて。

今はコンクリで覆われている。

3M*10M位

今では、水道当たり前で水をお大事に使おうなんてあまり思わないせいか

こういう貯水槽が3カ所。

第2と第3水源て何処だろう?

この辺りは、何カ所も伏流水が湧いてるようだ。消毒無しでも

飲用好適、なるほど、一応水道なので消毒してるそうだ。

この水源が、1000人の生活と、3/5くらいの水田を潤しているのだから

当に霊水。水汲みに来る人が絶えない。

子供の頃、不動さんの尊像見ると眼が潰れると大人に脅かされたっけ。

実は、ご本尊にまつわる弘法伝説があるようですが、眼が潰れるので

誰も話さないっし~。

大正時代には、この水を利用した発電所も作られた。

明るい農村の先駆けでした。小2の頃、山の方の家は、まだ電気点かないとか言ってたけど、からかわれてたか?

いづれ他の水源も探してみよう。





 

2016年2月22日 (月)

三光坊墓

 先々週の事なんですが、1園の作業終えて、一休みしてる所に、

近所の人がウオーキングで通りかかったので、丹生神社の

案内板だと前の河原の道祖神辺りなので

「あれかい?」

聞いてみた。

「違う、向かいの山の上だ、うちの墓の隣なんで、親父から

おめーが守れと言われたので、草刈りして手入れしてる。」

「墓碑銘もない自然石が立ってるんですぐわかる。」

という事で、行って見ると、1m位の自然石があり、南側は、

こんもりと塚のようになっている、北側は、圃場整理のせいか

面一。

そこの畑におばちゃんがいたので、聞いてみたら、まあ、女衆は

話好きで(女がしゃべらなきゃ赤ん坊が言葉覚えない。そう出来てるようだ)

此処には昔、お寺があった、と言っても、お堂の様な小さいもので、坊さんもいた。それが死んだ後、周りのオッシャン(坊さん)が交代で見てたけど、今は

永隣寺が見てる。だから、ここは墓地があるんだ。と言う事で、記録にも無い、伝承が聴けて良かったのですが、

この三光坊、ネットで調べると、室町~戦国期の有名な面打ち師、翁面が有名。越前の僧侶。三大面打ち師など、すごい人の様だが、それほどの人がなぜ、こんな辺境に、京都の公家にでも面を打てばよい暮らしも出来ただろう?

この地に来て、遺品の一つもないものか?まあ謎です。東北にも墓所の伝承があるようだし、同名の別人だろうか?

私が、こんな話をしても、どう言ういわれかの話もないので、地元でも三光坊というだけで、どんな人かは定かでは無いのか?知ってる人も居なくなったのか、たまたま自分の墓地の近くなんで、その人たちは伝承を受け継いでいる

そんな感じでしょうか。

しかし、聞いた人が、まさに隣の人、何か匂いを嗅ぎつける感じ

それに、地元の人には、伝承が受け継がれている。

名馬磨墨の石碑の場所も聞き出した。これも、通説とは違う場所であることは

聴いていたが、特定は出来ていなかった。

少しづつ謎が解けていくのは楽しい。ここらではっきりさせておかないと

後代には、ますます曖昧になってしまう。実際自分のきいた話と違うことも

多少ある。この日は、鳴沢不動の源流と自害久保を尋ねた。

北から↓

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南西から↓塚に見えるが。

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2016年1月31日 (日)

丹生東城

丹生(たんしょう様)神社の境内に、こんな案内板がある。61090087

東城の西に野栗神社とあるが、地元では御岳山と言われている。

子供の頃から、大きな石碑や石灯篭があるのは知っていたが、

近くに行ったことは無い。

隣の竹やぶで、筍を蹴り倒して遊んだくらいでした(爆笑)

今回、圃場整理されたこの地を、じっくり歩いてみました。

実は、馬頭観音は何処へ行ったのか気になり探したけど、

見つかりませんでした。

長男が生まれた時に、後産を埋めた所でした。この地では

ここに埋める風習がありました。

野栗社とは、浅間や熊野の様な分社の事か?良く分かりませんが

神社庁で調べてもこの地に、存在しない。

代りに、「白山神社、上丹生神社」の2社が、今は、存在が分からないが

160222追記。上丹生神社は、八幡宮。白山神社は、部落の人たちの信仰が厚いとの記事がwikiにあり。

登録されていました。シラヤマ神社は、かつて、そこにあったことは聞いたことがあります。名前までは聞きませんが。地元でも其れ位古いものだったか?

本題。

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2/7追記。上り口の石灯篭。これが御岳里宮に見立てたか?

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石灯篭超えると、行き成り不動尊。

でかい、1.5m位。でも何故、不動様?水は無いが。

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その上に八大童子。

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さらに上には、三十六童子。

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清滝弁天。

追記。安政二年乙卯一八五五年。他の文字は読み取れず。

今回、新たにもう一つ石碑が見つかったが、完全に風化して

何も読めない。配列から推測すると、八海山、三笠両大神のどちらか

ということはないだろうし。民間信仰でなじみ深い、田ノ原大黒天辺りではないかと思うのです。

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五大竜王。次々現れる石碑。一体これは・・・・。

更に、更に、

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阿留摩耶天。以前下仁田富士に登った時、カラス天狗が居られたが

そこは、御岳信仰が一目でわかるところだった。

ここは一体???

追記。この神様だけは、御岳山の配列とは違うようですが、

本家は継子岳に祭られているようですが。

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ここが頂上だった、なるほど立派。ここだけは明治時代の建立で書体も

石材も見事ですね。(明治三十二年九月1899年)

昭和の初めころは、石尊講(7/二十日ころ、疫病が他所から入らないように

村堺や川に梵天を立ててしめ縄で結界を張る。)

の時、お参りして、越中褌の男衆が

「懺悔 懺悔 大懺悔 大山石尊大権現」

とか言って、水かけっこしたと聞いたことがある。

山伏のさんげ~というのと同じか?

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そしてすぐ後ろのかつての城の土塁跡に、摩利支天が。

これで、大黒様があれば完璧。しかし、ここはパワースポットですよ。

これは、一体何かと調べてみたら、木曽御岳の、大滝口を再現したものの様だ。なるほど、神仏の配置まで同じようだ。西の御岳方向を向いている。

正確には南西かな?

まあ、江戸時代、正確な方向は分からず、「大体あっちのほうだんべ~」

って感じかね。今でも緑の事を青というくらいだし。

東京とかにある、富士塚と同じような意味合いのものかな?

先日、二度までも私を拒んだ、秋葉山も見事な様だが、こちらも

立派、

大桁山の石仏も謎が解けた。↓

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それから、唯一残る東城の遺構は、摩利支天と御岳の続きの

郭(障子掘?)跡だけです。ここは発掘調査無のようです。

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摩利支天の土塁はかつて3mほどあり、今は1m。其の上に本郭が1m

頂上を3m削ったというから、ほぼ計算は合う。

61090074本郭跡から、大桁、本城。

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南東に宇田城。高田本城。右手には神成、宮崎城。

61090079_2北に郷戸が谷津城。

周り中敵だらけだとしたら、何とも落ち着かない場所ですね。

まあ、東の守りが固い所を見ると、高田氏は敵の部類だったか?

かつて、四朗入道金乗は、高田に夜襲をかけられた話が有ったので

新田氏も警戒したであろう。

発掘調査の様子は余湖さんのHP

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かつて、裏木戸があった、木戸坂。今は直線道だが、かつてはクランクで

深い切通しだった。

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追記。石碑の配列はほぼこうなっております。








2015年12月16日 (水)

丹生城

 時々、郷土の史跡なんかを検索すると結構ヒットします。

どの世界にも通人はいるもんだ。

そんで、20年位?前かな。丹生城保存会的なのをどなたかが立ち上げて

藪刈して案内板なんかを設置してくれた。

しかし、私的には?????な所が幾つかある。

発掘調査がされた訳でもなく、

地元に約400年伝わる伝承の方が遥かに信憑性がありそうなのです。

おそらくは、山崎先生の調査資料に基付いているのでしょうが、先生の見取り図も位置的に違う所があったりします。

例えば小屋敷。ここは地名的には森下(この地名も失われつつある、年寄りが居なくなれば、消えるんだろうな)で小屋敷はもっと南西、近年二の丸と言われ出した所の麓にあたります。

もっとも、先生は此処を二の丸とは言ってませんので、十分な確証が得られなかったという事でしょう。

さすがです。

そんな訳で自分なりに、口伝を検証して見よう、そして失われゆく遺跡は

形が変われば、また、間違った形が伝承されてしまう、そんな危機感を感じての事です。

そもそも、丹生城とは、応永32(1452年)新田氏が賜ったというのが史実のようですが、地元の年寄りたちは、丹生四朗金乗(にゅうしろうかねのり)の開城というのが通説です。

そこに、新田氏の影は微塵もありません。

もうお分かりと思いますが、丹生山金乗寺、ここにかねのりの名があります。

菩提寺として、この寺を開基したようです。

そして、この人は、平家物語(11巻、弓流しの項)にも出てくるのですが、果たして本人かどうかは良く分かりません。というのは、源平合戦で功を立てこの地に入ったらしい説があるのに、当の合戦では上野の住人と出てくるので、これ以前の合戦で功を上げたという事でしょうか?謎ですね。

(11巻、弓流しの項)

さてさて、土曜日は、漸く強い霜が降りたので、しもんたねぎを掘りました。

ネギを干す間に、城に上りました。

151212今年も良いのが出来ました。

いや、何のブログか不明になってますけど(苦笑)

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お馴染みの案内板ですが、構久保は古地図で鎌久保。御屋敷は小屋敷です。本丸を御屋敷、家臣団の住居を小屋敷と言ったのかも知れません。

あるいは、国峰城のように。平時は小屋敷に住んでいた。いずれにしても

本丸に対しての呼び名でしょうか?まあ、城と言っても、有事立てこもるための物、立派な居館が有った訳ではないでしょう、瓦欠け一つ見付けた事ありません、砦でしょうね。

しかし、たかだか400mの尾根に物見櫓が多すぎません?どこの尾根に上っても周りは丸見えですけど。
まあ、実際歩いてみてください。研究家の皆さんなら信じる人もいないでしょうが、素人は、すごい城だったんだなあなんて思っちゃいますね。

実際、規模としては凄い城と思いますが。

それで、今回は、だれの調査だったか、西に三重の竪堀あり、つうのを見た覚えがあり、ピンと来ていたので、そこを見てみました。

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金乗寺の北、水道施設の所に、堀切があります。

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今は落ち葉に埋もれてしまいましたが、深い所は1m以上あり、自然の道型ではないでしょう。

また続きの尾根は、畑となってますが。元は櫓だったと思えませんか?

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垂直に近い土手、平らな畑、近年の開墾ならわざわざこんなご丁寧なことはしませんよ。
今は道路で分断されていますが、左側がさっきの薬研掘に続きます。

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金乗寺側も急、工事で更に急になってしまいましたが、有事はこれも防御の拠点となったことでしょう。最も、本堂は元は10間の菅屋。火矢でも射かけられれば

ひとたまりもありませんが。

16.02/22追記、金乗寺は、当時ここにはないのですが、地形からすれば、城域の範囲でしょうね。外から2番目の竪掘りの先は、2段の郭です。今は墓地

今回の堀切の向かって左の墓地がそれです。

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ガードレールの途切れたところで、堀は分断されていますが、上にも続きます。この左下、郭の跡らしきがあります。↓

10上方向はやや平坦な道。

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研究家の皆さんはどう見るか?

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